「遺言返し」として
宮崎駿監督(以下敬称略)の、最後になるかもしれないアニメーション映画「君たちはどう生きるか」が公開された。
同名の小説からタイトルをとったこの映画は「小説の映画化」ではない。
じゃあ、たとえば小説は原案?なんだろうか。いや、ちがう。実際はそれどころかタイトルが同じだけの、まったく別の作品である。
もちろん小説はきっと宮崎駿の着想のキッカケにはなっているのだろうが、中身は別モノなのはたしかだ。
ただ、この小説のマンガ版がある。こっちは映画と違って、ストレートな小説版のコミカライズである。
今回はマンガ版を中心に、この作品をそしてついでに映画版や宮﨑駿についても取り上げたい。
ところで、ここまで時評に近いセレクトは、本コラムのポリシーに反している。
業界最強のへそ曲がりコラムとしては、ハヤリモノは「だれもまだ注目してないとき」か、もしくは「もうだれもその話題をしなくなってから」にしておきたい(うわ、めんどくさい)。
それでも決意してコラムを書きはじめようとして、なにげなくケムールを見たら、「シガレット・バーン」でまさかのネタかぶり(笑)。
こ、これは、見えざる手がぼくの愚行を止めているのか……!が、悩んだあげく、やっぱりこれで行くことにした。
なぜなら、宮崎駿についてリアルタイムに書くことができる機会などもう一生ない、と思ったからだ。
過去作については本コラムでもご紹介したし(第三回「風の谷のナウシカ」)、他のマンガのご紹介でもしばしば御大には登場してもらったが、ガチのリアルタイムで宮崎駿について書くことは、それらとは次元の違う話だ。それは、同時代に生きた者にだけ許される特権的体験である。
ここはマンガの紹介コラムであって、作家をピックアップするところではないが、どうかお許しください。
わが国の、いや、大げさでもなんでもなく“人類”のマンガ文化に、宮崎駿が与えた影響は、あまりに大きいからだ。
大きすぎてぼくごときでは太刀打ちできそうにないが、ここでやらないと後悔するだろう。なにより、かれの「遺言」には何か答えたい。
なお、この映画から宮崎駿は「宮﨑」と名前を変えている(崎が「たつさき」)。理由はわからない。たつさきのほうが、本来の字なのかもしれない。なお、「崎」と「﨑」の字の由来はおもしろい(実はこのふたつは、“まったく同じ”で、どちらを使っても正しい)ので、興味があるかたはお調べになるといいがここでは割愛。
このコラムでは、いちばん付き合いの長い、もとの「宮崎」で統一しておく。
おっと、宮崎駿はあくまでも今回は“オマケ”なんだった。マンガの話をしよう。
小説/マンガ/映画
まずは、マンガ版「君たちはどう生きるか」について、カンタンにご紹介しておこう。
このマンガは1937年に発表された、吉野源三郎氏の「君たちはどう生きるか」という小説を原作にしている。
吉野源三郎氏は、戦前~戦後の、つまり「昭和」の代表的な知識人のひとりと言っていい。肩書もやたらと多い(岩波書店のえらいひととか、明治大学教授とか)。
小説版はロングセラーとなり、新潮社・未来社・ポプラ社・講談社・岩波書店とさまざまな版元から、語彙を平易にするなどの改訂をかさねながら、連綿と刊行されてきた。
マンガ版は2017年マガジンハウスから刊行。えらい売れたそうだ。だが、たぶん“数字”はこの作品の勲章にふさわしくない。
小説版がいくつもの版元を渡り歩いてきたのは、海千山千の編集者たちにすらも「この本は出版され続けなければならない」と思わせたからだろう。その事実だけで十分に思える。
なにより、これをマンガにしようと企画した編集者の眼力は称賛されるべきだと思う。あきらかに“マンガにしやすい”小説じゃないからだ。
2023年の映画版は、タイトルだけは同じであるが、完全にオリジナルな作品として作られた。
小説はちらっと映画のなかに出てくるが、特にストーリーのなかで重要な役割を担っていないし、そもそも直接ストーリーに絡んだりもしない。このへんは後述。
マンガ版の作画は羽賀翔一先生。コミックスはデビュー作の「ケシゴムハウス」や「昼間のパパは光ってる」を出されている。
この「君たちはどう生きるか」が大ヒットしたあと、一転してシュールな学園パロディ「ハト部」を発表。新書や書籍の表紙イラストも多く手掛けておられる。
羽賀先生に対するぼくの率直な印象は、とにかく「まっとう」。その絵ヂカラ、題材選び、一日一枚絵をSNSに淡々と上げつづける継続力、そういったものに、ムリや、影や、力みを感じない。
だからって、きっとラクはしてないし、大変なこともおありだったと思うが、すべてまっとうな苦労なんだと思う。後ろめたい人生を送っているぼくとは一生わかりあえない(笑)気がする。
言い換えれば、「間違うことすら、正しく間違っている」ような、そういう感じ。この感覚は、マンガ「君たちはどう生きるか」を読むうえで、けっこう重要だと思うので強調しておきたい。
小説版はエンタメ0%
基本的にマンガ版=小説版である。章立てもほぼ同じだ。話の都合上、区別したいときのみ、マンガか小説かを明示したいと思う(繰り返すが、映画版は完全に別)。
で、その内容だが……
大前提として、この作品は「娯楽的」なものではない。
じゃあなんなんだと言うと、この作品の原作小説は青少年への倫理教育のために書かれたもの、なんだそうだ。
小説版が最初に刊行されたレーベルは「日本少国民文庫」という。
日本!少!国民!なんかグッとくる単語が並んでるぜ。戦後すらもはや遠い2023年を生きるぼくらには、このセンスはちょっと理解しにくいかもしれない。
だが、小説版が発表されたのは1937年。つまり、第二次大戦前夜。もう日本は軍国主義の空気も色濃く、言論の自由にも制限がかかり、社会はよろしくない方向へ突き進みつつあったころだ。
そんな時代だったことを踏まえておかないと、この“語の選択”のニュアンスを読み誤ってしまうだろう。
「少年少女に訴える余地はまだ残っているし、せめてこの人々だけは、時勢の悪い影響から守りたい」。
「日本少国民文庫」を創刊した山本有三氏はそういう思いだったのだと、吉野氏は小説版あとがき「作品について」で述べている。
こういう、ほんとうに真摯なことを言える人がいて、それを語り継ごうとする人がいる――そういう時代であったのだろう。
今の世代が誤ったとしても、次の世代が正してくれる、そんな希望をもつことに、説得力があった時代。うらやましいなあ。
<倫理>などと聞くとジンマシンが出るぼくですら、この小説に込められた、人間の本性と、それを理性で収めていこうとするメッセージ性には、素直に恐れ入ってしまう。
その、一見短絡的といえるタイトルから『「どう生きるか」という表現がとかくモラルの問題だけを主題にしているように受け取られやすい』(丸山真男による小説版解説より)きらいはある。ぼくも正直、最初は思ったものだ。
「……この説教くさいタイトルは、どうにかならなかったんだろうか」と。
だが、もちろん、そんな批判は的外れだろう。
ネタバレしちゃうが(別にかまわないと判断した)、この「君たちはどう生きるか」というテキストは、この小説のラストで用いられる。
この、優等生っぽい、どこか説教くさいテキストは、そういう短絡的な文脈で持ち出されてはいない。
十分な助走距離をとって、つまりこのテキストが最後に出てもおかしくないような経路をたどって、考え、悩んだ結果として、持ち出されたテキストなのだ。
マンガ版もエンタメ0%だぜ
マンガ版もむろん、同様の意味で「娯楽的」ではない。
血湧き肉躍る展開はないし、ロリ巨乳美少女も出てこない。要はオタクが好む要素は皆無である。
かわりに、この作品に登場するのは、ひとりの少年とひとりのオトナだ。
少年の名は本田潤一(ほんだ・じゅんいち)。中学生。作品冒頭で「コペル君」というあだ名をもらうことになり、以後その名で呼ばれるようになる。
このあだ名は、「地動説」をとなえたコペルニクスにちなんでいる。ここには、作品を通底するある考え方が反映している。
出典:君たちはどう生きるか ©原作:吉野源三郎 漫画:羽賀翔一・マガジンハウス
そのあだ名をつけたオトナの名は、じつは作中で最後まで明かされていない。
彼は潤一=コペル君の「叔父」であり、作中ではただ「おじさん」とだけ呼ばれている。
「おじさん」は元編集者であるのだが、今は退職して無職。それを機にコペル君の家の近所に引っ越してくる。そしてコペル君との交流が始まるのである。
出典:君たちはどう生きるか ©原作:吉野源三郎 漫画:羽賀翔一・マガジンハウス
おじさんは、コペル君の師(=メンター)的な立場として、物語すべてを通じてコペル君に人生におけるさまざまな倫理的課題への、考えるヒントを示しつづけていく。
作品の構成は、非常にわかりやすい。まさに「教科書」のような構成になっている。
まず、コペル君の日常が描かれる。その中で彼はなんらかの問題に直面する。そして、その答えに悩む。
その悩みに対しておじさんが、コペル君を導くようなテキストを「ノート」にまとめて書いていく。
出典:君たちはどう生きるか ©原作:吉野源三郎 漫画:羽賀翔一・マガジンハウス
このノートはコペル君に読んでもらうことを想定して書かれはじめたが、当初はまだ、コペル君もノートのことは知らない。
だが、ある出来事があって、おじさんはこのノートをコペル君についに託すことになる。
小説でもマンガでも、この構成は変わらない。コペル君章・おじさんノート章・コペル君章……と、交互につづいていく。つまり<出題編>と<回答編>みたいな感じである。
ただし、読者からはそう見えるだけで、コペル君当人はかなり後半になってからノートを受け取って中を読むまで、おじさんの意見や考えを知らない。
だから、一事件ごとにコペル君が新たな知恵を会得してレベルアップしていく、みたいなことはない。
あと小説だと、コペル君章もおじさんノート章も、どちらも文字によるテキストだから、シームレスに読みつづけていけるが、マンガではここはちょっと、ひっかかるかもしれない。
コペル君章はすべてマンガだが、おじさんノート章になると、突然すべて文字テキストになるのである。たとえばこんなふうに。
出典:君たちはどう生きるか ©原作:吉野源三郎 漫画:羽賀翔一・マガジンハウス
表現形式がガラリと変わるのだから、読者はいささか驚くかもしれない。
ただ、このマンガ化の意義は、テキストを読むのがニガテな「小説や評論文や思想書に不慣れなユーザー」に、作品を読んでもらう機会をつくることだと思うから、こうした不自然さがあるのはやむをえないと思う。
なにを、どううまく表現したところで、読んでもらえなければ話にならないからだ。
ちなみに、そうはいっても小説版はかなり平易に書いてある。ぼくは岩波文庫版を読んだが、コペル君くらいの年(設定上、中学生。13~15歳)なら“読む”ことができる難易度だと感じた(“理解”できるかどうかは別)。
ところでひとつ告白すると、ぼくはこういう倫理的書物を小さい頃から蛇蝎のように憎んでいて(笑)、そういうものを見かけたらツバを吐きかけずにはいられないタチだった。
なので、中学生とかで読んでいたら本当にビリビリに破いたりしていたかもしれない。
なぜ、そんな極端な拒否反応を示すのかというと、ぼくは<倫理>というものに異常なほどに期待しているからだと思う。
倫理と名乗るものをことごとく憎んでいるのは、それらのほとんどが<倫理>の名に値しないと思うからなのだろう。
ぼくがこの「君たちはどう生きるか」という作品を、ビリビリにしないで読むことができたのは、きっとこの作品はお仕着せの、お説教の<倫理>など書いていないから、だと思う。
もし、これが「正解」だ、みたいなことが書かれていたなら、ぼくはやはりこのマンガをビリビリにしていただろう。でも、ちがう。
ぼくと同じような“食わず嫌い”をしているかたがいたら、だまされたと思って、読んでみてください。
天動説の「セカイ」、地動説の「世界」
たぶん、この作品についてご紹介することは、小説の作者・吉野源三郎の思想について掘り下げるのが本筋なのだろう。
軍国主義にひた走る日本において、そういったものとも距離を置きつつ、だからといって急進的な左翼思想とも一線を画し、それでいて進歩的な社会思想をふまえた立ち位置を守ったその生き方には圧倒される。
そんな彼の思想が、この「君たちはどう生きるか」という作品には、おしげもなく注ぎ込まれている。ぐあ、ヘビー級だ。
だが、このコラムはせっかくマンガという読みやすい形式にフォーカスしているのだから、ここはちょっと肩の力をぬいてご紹介したい。
さて、この作品はすでにご紹介したとおり、コペル君とおじさんの問答によって構成されている。
コペル君の日常からピックアップされるさまざまな「課題」は、ひとならばだれでも経験があるような、極めてありふれた日常的なものばかりである。
ともだちとの約束を破ってもう消えてしまいたい、という情けなさに苦悩する……とか。
だが、だからといって、その課題がとるに足らないものだ、ということはない。
その小さな疑問や悩みの種は、おじさんがまさにそうしているように、どこかで人間の普遍性に通じているからだ。
こういう、なんというかズルしないで面倒事を引き受けてくれようとしているような作品を読むと、心からホッとする。
たとえば……これが「セカイ系」だと、どういうわけか、すぐに凡庸な日常と世界の危機がなんの必然性もないのに結び付けられ、主人公は「セカイ」を救ったりする。
もちろんここでいう「セカイ」は、「世界」じゃない。「世界」という概念が内包している、とてもひとりの人間では把握しきれない複雑さや多様さを、物語の都合で省略するのが「セカイ系」だからだ。
だから、わざわざ、カタカナで「セカイ」と書くのだ。それは断じて、世界そのものではないわけだ。
あるいは「なろう系」なら、世界のスケールが極端に矮小化される。
それは小さな領地だったり、なんか店や街やダンジョンだったり、とにかく、端的に狭い。
小学生のとき、近所の地図を書いてみましょうみたいな授業があって、駄菓子屋とかクリーニング屋とか、そういうのを知っている道路だけで結んだ、小さな地図を作ったことがある。
それとレベルは同じだ。つまり、これもまた世界ではない。
ひとひとりでは把握しきれない、圧倒的な世界の規模に、「抑圧」や「無力感」を感じる世代のために、あえて世界を切り捨ててみせる形式が「セカイ系」や「なろう系」だとぼくは思っている。
それはそれで、ひとつの有効な対処法なのだと思う。実際これらのジャンルは、多くの読者の支持を集めたし、今も続々と新しい作品が生まれている。
だが、そういう対処に、ふと、むなしさというか、空虚さを感じることがある。
そんなに、生々しい世界から逃げつづけていてホントにいいんだろうか……と。
「君たちはどう生きるか」のコペル君は、まさに、真逆である。
この物語は、コペル君が、まさにその、世界の圧倒的な多様さ・複雑さに、電撃的に気がつくシーンからはじまるのだ。
コペル君の最初に抱いた疑念は、「人間は分子なんじゃないか」というものであった。
出典:君たちはどう生きるか ©原作:吉野源三郎 漫画:羽賀翔一・マガジンハウス
自分は、いや、すべてのひとは、世界を構成する一部である。
自分を中心に回っているわけではない。
この着想はすなわち、コペルニクスが「天動説」ではなく「地動説」を唱えたようなもので、それくらいの大発見だ。
だから順一をこれからは「コペル君」と呼ぶことにする、おじさんはそう言うのだった。
出典:君たちはどう生きるか ©原作:吉野源三郎 漫画:羽賀翔一・マガジンハウス
ぼくはこのシーンを読んだとき、ちょっとだけ複雑な気分になった。いまから100年近く前<倫理>について考えたり書いたりしようとしたら、まずここから始めようとしていたわけだ。
それは、人間がおびただしい犠牲を払って、ようやく獲得したスタートラインだ。
地動説を命がけで研究するひとびとを描いたマンガ「チ。-地球の運動について-」(魚豊 小学館)がちょっと前に話題になったが、あれなんかもう、血みどろの闘争しているわけで。
でも、たとえば「セカイ系」や「なろう系」は、天動説なんじゃないか……そんなふうにぼくは感じたのだ。
もちろんこれらは、エンタメ天動説にすぎないのであって、書き手も読み手もそう信じているわけじゃない。
ただ、ぼくは書店の店頭で、その売れる数をずっと見ていて、いわば、地動説マンガより天動説マンガのほうが売れるなあ、と、そんなふうに思ってしまう。
そりゃそうだ、自分中心に回っているセカイのほうが、楽だし、気持ちいいから、エンタメになる。
でもやっぱり、目を閉じ、耳をふさいでも「それでも地球は回っている」わけだ。
物語の終わり近くでコペル君は友だちとの約束を破ってしまい、悩み、引きこもってしまう。
でも、手紙を書き、自分の情けなさと後悔を率直に伝え、また仲良くなる(これはマンガ版のみの演出だ)。
コペル君は本当にえらいと思う。世界を救うわけでもないし、だれかを助けてもいない。だが、多分、これができるのとできないのとでは、天動説と地動説くらいちがう。
マンガ「君たちはどう生きるか」は、本当に読みやすく、この“ココロの地動説”を描いている。羽賀先生の描き方は、シンプルで、よけいな、大げさな演出もないのもいい。
ぼくに子どもがいたら読ませていた気がする。ジブリ映画をきっかけに、このマンガが広く読まれたのだとすれば、それはよかったなあ、とぼくは思った。
で、映画版だが……
映画版のこと
寝た(笑)。
……と書くと、ちょっとヤな感じかしらん。
そもそも寝不足で見に行ったぼくが悪かったのだ。
ただ、実際に途中二度ほど、数秒“寝落ち”してしまったのは事実だ。
タルコフスキーの「ソラリス」以来だ、期待して観た映画で寝たのは。
ぼくは、これが宮崎駿の遺作になってもならなくても、どっちでもいい。
ただ、この映画に限れば「あーあ、やっぱり、風立ちぬバージョン・宮崎駿が出ちゃったんだな」と思った。
映画が終わって、おそらくぼくを含めた大半のオトナが「え?これで終わり?」と、あっけにとられていた。
そしたら、そのまま照明が明るくなって、本当に終わりらしくて、その事実を受け入れられないで座りつづけていた。どうしたもんか、とマゴマゴしていたら、右に座っていた小さな女の子が、
「こわかった」
と母親に言っていたのが、印象的だった。
その未熟でスナオな感性が、この映画に感じたものが「恐怖」だった、ということには、もっともな理由があるとすぐに思った。
小さな子が、この映画が「わかる」とは、まったく、これっぽっちも思えない。
そういう映画はあっていいが、ファミリー向けじゃないのはたしかだ。いくら前宣伝はしないにしても、「トトロ」みたいなのを期待して子どもを映画館に連れてきた親の、困惑した表情は、ちょっと見るのがつらかった。
たぶん、この「こわい」は、この映画が描こうとしたものが、不特定多数のぼくらに向けられたものじゃなかったから、なんだと思う。
映画版のストーリーは公開前は伏せられていたようだが、もうある程度は公開していいだろう。小説・マンガ版とまるでちがうが、一応軽くご紹介。
それに、見た方はおわかりと思うが、この映画はストーリーを文章でいくら読んだところで、まったく意味がない。
……太平洋戦争がはじまって数年。主人公・牧眞人(まき・まひと)は母親を火事で亡くす。軍需工場を経営する父は、母の妹ナツコと再婚し、眞人を連れて田舎に疎開する。
疎開先である母の実家には、「塔」のある洋館があって、そこではさまざまな不思議なことが起きる。特に、奇妙な「アオサギ」が住みついており、眞人はアオサギに翻弄される。
ある日、義母ナツコが失踪する。どうやら、塔に入っていったらしい。
それを追って洋館に潜入した眞人と、それを追ってきた、ばあやのキリコ。そこには、アオサギが待ち構えていた。眞人は、ナツコを探しに、「下の世界」へ赴く。……
書いててもう、わかりやすくするのをあきらめました(笑)。
ちゃんと知りたい方は素直に劇場へ行ってください。
とにかく、「下の世界」に降りていった眞人(とキリコとアオサギ)は、そこでさまざまな幻想的なできごとに遭遇しながら、ナツコを探す冒険行をつづけていく、で、なんだかんだで、戻ってくる、ってオハナシ。
……さて、象徴・隠喩・寓意にみちみちたこの映画は、ぼくには不必要にむずかしく作られたものに思えた。
つまりは、なにかの「置き換え」なんだろうが、その元は大した重要ごとでもない(けど宮崎駿にとってはたぶん重要なのだろう)。
わかりやすくしなくてもいい。だが、視聴者になにかを伝えたいのならば、わかってもらおうとする工夫はいる。
試みた結果、それが失敗してしまうのは別にしかたない。ただ、この映画については視聴者ファーストじゃない気がする。
「あっ、パヤオ、開き直ったか」と思った。
そうか、わかったぞ、「イメージビデオ」だ!そうだ、これがいちばんしっくりハマる呼び方だ。やっとスッキリした。
これは、遺言というより、82のジイさんが遺言代わりに作ったイメージビデオ。
「わかってもらえなくても、かまわない」という思いは、当然あったろう。もう娯楽はさんざん作ったから、いいじゃないか、と。
そのとおりだ。好きなように作ればいいし、それがぼくらの期待したものでなかったとしても、まったく問題はない。
ただ、以前も書いたが、思想家としての宮崎駿をぼくはあまり評価しない。
同意はするが、おどろかされたり、影響を受けたりはしない。
いっぽうで、表現者としての彼には、ただただ、おどろき、感動し、揺さぶられるばかりだ。そういう宮崎駿の片鱗は、この映画にも随所に見られた。
爆発的に増殖する、カエルや鳥の群れ。アオサギを動かすアニメーションの技。やっぱり見事だった。
タイトルを「君たちはどう生きるか」にした以上、その小説に、なにかをインスパイアされたんだろうと思って、ぼくは小説もマンガもしっかり予習して、映画を観に行った。
だが、開始5分で、「あ、これは、記憶完全デリートしないとだめなやつだな」と思った。
映画版は、いくらでも裏を読める。解釈し、意味を読み取り、適切に言語化する……これは、そういう映画なのか。
たとえば、ギリシャ神話におけるオルフェウスの冥界下りとの相似性。孕んだ義母、死んだ実母のトラウマ、権威的な父親、地下に行きて帰りし物語。
でも、そんなのより、この映画は、宮崎駿流の、少年時代のイメージビデオだといってしまいたい。
美しい母への思慕、その死と乗り越え。死にゆくペリカンや老人が象徴する、老いと、深い「諦念」を、少年らしい若さと勇気と純粋さで受け止めるさま。世界の不条理を、地に足のついた自分自身の世界観を手に入れることで乗り越えること。
いまさら自分を「おおきく」見せる必要のない宮崎駿のことだ。彼が「よし」とするさまざまな判断基準を、すべてぶちこんで、世界と、自分と、生きていくことの、あるべき理想を、象徴的に表現したのが映画「君たちはどう生きるか」なんだろう……って、うわー、こういう答え合わせみたいなの、自分でもやりたくないなー
なんか……褒めないとダメ、みたいな「ジブリ圧力」が、ある気がして……
以前ご紹介した「木根さんの1人でキネマ」の姿勢に習おうと思う。
この映画版、ぼくにはおもしろくなかったです、はい。
戦車とか飛行機とか、そういうのをよろこんで描いていた宮崎駿は、そういう己に、なにか引け目だったり、罪深さを感じてたらしいけど……
ちがう!そっちの扉を、開いちゃ、ダメだ!
「死」とか「老い」とか「家族」とか「母親」とか、そういうの、あなたのやるこっちゃないんだ。
他にいるから!代わりにやってくれるひと!でも、あなたの代わりはいないんだ!
なんといえばいいのか、あなたの描きたい・あなたしか描けない絵で埋め尽くされた、次の映画を作ってください。
これでくたばっちまうなんて、やっぱりゆるせないです。
- エンタメ
- COMIC ZIN, 君たちはどう生きるか, 書評, 漫画