SF小説家・野尻抱介氏が、原始的な遊びを通して人類のテクノロジー史を辿り直す本連載。
人工知能や仮想現実などなど、先進技術を怖がらず、翻弄されず、つかず離れず「ぱられる=横並び」に生きていく。プレ・シンギュラリティ時代の人類のたしなみを実践します。
1章 宇宙博物館
制作中に何度かお邪魔したが、そのときは格納庫みたいな殺風景な空間に展示物がごろごろ置いてあるだけだった。それが正式オープン後に入ってみると、素晴らしい科学博物館になっていた。スタッフはリアル(実世界)の科学博物館をよくわかっているが、おそらく「リアルに匹敵するものを作ろう」とは考えなかったのだろう。できあがったのは「リアルを超えた理想の科学博物館」だった。
中央ホールには科学未来館にあるような地球儀が鎮座しているが、異なるのはそれを周回する人工天体の現在位置が描かれていることだ。先日打ち上げられた月着陸機SLIMは地球から遠ざかっている最中だったが、それもよく探すと表示されていた。
しかし私には、地球生命がそこまで非凡な存在とは思えない。たぶん生命の発生確率を高める未知の仕組みがあるのだろう。そして生命の発生確率を論じるには、まだ未知の変数が多すぎる。地球外に高度な文明があるなら通信によるコミュニケーションもできよう。しかし知能を持たない生命の存在を慥かめるには、こちらから探しに行くしかない。
惑星上に生命が発生して知能がめばえ、外の世界を知ろうとして自分たちの住む世界から飛び立つ営みが、この宇宙に少なくとも1例は存在している。この展示は、その端緒を示すためにどうしても必要だと判断されたのだろう。
宇宙開発レース(Space Race)とは普通名詞ではなく、「関ヶ原の合戦」みたいに歴史上に一度だけあったイベントだ。競技者はアメリカ合衆国とソビエト連邦。冷戦の一環として、国家の威信をかけて行われた。レースは1957年のソ連による人工衛星スプートニク1号の打ち上げに始まる。中心になる期間は1960年代の10年で、1969年のアポロ11号の月往還成功でほぼ決着した。
1961年4月12日 ソ連のユーリ・ガガーリンが人類初の軌道飛行をする。(画面左から3番め、Vostokロケット)
1961年5月5日 アメリカのアラン・シェパードが弾道飛行をする(Vostokロケットの右隣、Mercury-Redstone ロケット)
ごらんの通り、相次いで行われた有人打ち上げはソ連の圧勝だった。時期も早いし、ソ連は軌道飛行、アメリカはたった15分の弾道飛行だった。
にもかかわらず――あるいはそれゆえか――わずか20日後の1961年5月25日、ケネディ大統領は上下両院合同議会でアポロ計画を推進する有名な演説をする。
「 まず私は、今後10年以内に人間を月に着陸させ、安全に地球に帰還させるという目標の達成に我が国民が取り組むべきと確信しています。この期間のこの宇宙プロジェクト以上に、より強い印象を人類に残すものは存在せず、長きにわたる宇宙探査史においてより重要となるものも存在しないことでしょう。そして、このプロジェクト以上に完遂に困難を伴い費用を要するものもないでしょう」
そこからわずか8年後、画面右端にある白い巨大なロケット、サターンVによって人類は月に到達し、帰還する。
同じフロアに実物大のサターンVがあるので、私のアバター(身長130cm)と比較していただきたい。「アポロは月に行ってない」と主張する人はいまだにいるが、一笑に付すまでのことだ。これは間違いなく実際にあった偉業である。ただ、そのための乗り物を見ると、信じられなくなる気持ちもわからなくはない。
サターンVロケットは非常識な乗り物だ。直径10mの胴体に直径3.6mのF-1エンジンが5基ついている。コスモリアではノズルの中に入れるので、ぜひVR環境で実感してもらいたい。ここに毎秒10トンのケロシンと液体酸素が流れ込み、「制御された爆発」と呼ばれる燃焼が起きて、3000トンの機体を持ち上げる。
そこから月に着陸するのが15トン。月面活動が終わって月の石を何キロか携え、月着陸船の上半分が月周回軌道に戻る。そこでアポロ司令船+機械船に乗り換え、地球に帰還する。大気圏突入の直前に機械船を分離して、5.8トンの司令船(コマンドモジュール)だけになる。パラシュートで降りてきて海に着水するのがこれだ。
だがそれではレースに勝てないのだ。
アメリカ国民をまとめるためにも、宇宙開発レースの勝利が必要だった。アポロ計画は掛け値なしの偉業だが、この時代にしかない、狂気の産物でもあった。その熱は極東の、当時は貧しかった国に住む子供の私にも伝わってきた。アポロ計画を繰り返すことはできないし、するべきでもない。
2章 ヒューストンへの旅
オースチン空港からレンタカーに乗り、右側走行に戸惑いながら、ひなびたレストランに入った。バーベキューが売りのビュッフェだが、保温ケースにある肉を適当に選び、パンやスープと合わせて食べる簡素なものだった。
2007年のことで、私はスマホもタブレットも持ってなかった。携えていったデジタル通信機器はモバイルギアという非力なWindowsCEマシンだけだった。地図は紙だし、わからないことは人に聞いた。
近くのテーブルにいた赤いチェックのシャツを着たおじさんに「あー、ちょっと道を教えてほしいあるが……」と言うと、おじさんは東洋からの旅行者とみるや「おっ、どうした。ユーはどこへ行きたいんだ?」と情熱的に応じてくれた。
「ヒューストンか。それならここを南に行って、インターステートハイウェイに乗って東に向かうんだ。すぐわかるよ!」
と身振り手振りをまじえて教えてくれた。オースチンに限らず、アメリカに限ったことでもないが、海外を旅すると親切にされるものだ。
すると、ちょっとかわいい女の子がすたすた路肩を歩いてきて、こう言った。
「ハロー、裁判所まで乗せてくれない? 留置場から2時間歩いてきたの」
と言った。実際には英語で、いろいろ苦労して意思疎通したのだが、いま思い出すと東北きりたんの声で日本語になって再生される。
海外で若い女の子が近づいてきたら、目的はほぼ決まっている。君子危うきに近寄らずだ。だが私は、海外旅行とは率先してカモになりにいく行為だと思っているので、会話を続けた。私にたかるつもりなら、留置場だの裁判所だの言うのも不自然だった。
「留置所? あなた、なにやらかしたあるか?」
「公園で酔っ払ったの」
「未成年あるか?」
「私は22歳。この国はパブリックスペースで泥酔するとしょっぴかれるの」
留置所を出て、これから裁判所で手続きをすると言って書類を見せた。名前はジェニファーなんとかさん。メキシコ系なのか、褐色の肌で髪は黒のストレート。
「裁判所のあとはどうするあるか?」
「家に帰るわ。そこからは近いから。5人家族なの」
私は助手席にジェニファーを乗せて、ジョンソン宇宙センターの前を素通りし、言われるままにしばらく走った。
「裁判所はそこよ。ここでいいわ。ありがと」
白い歯を見せてさらりと笑い、助手席のドアを閉めると、ジェニファーはもう振り返らず、車の切れ目を縫って小走りに道を渡っていった。
ハンバーガーでもおごってやればよかったかな、と思ったが、このエピソードはこれで終わりだ。
私は車をUターンさせ、ジョンソン宇宙センターに向かった。
そこは広大な敷地と多数の建物、電波試験用のフィールドなどがあり、入り口もいくつかあった。私は第2ゲートに入り、係員に「サターンロケットを見たいある」と告げた。
係員は「セキュリティを呼ぶからそこで待て」と言った。ゲートの横に車を移動させると、すぐにピックアップトラックがやってきて、テンガロンハットをかぶったジョン・ウェインみたいな男が車内から「ついてこい、ゴーアヘッド」と言って先導した。うわあテキサスだなあ、と思いながらついていった。
大きな白い建屋のそばの駐車場に案内され、ピックアップトラックは立ち去った。
ロケットパーク(Rocket Park)という掲示があって、遠くに小型のロケットが展示されていた。ずんぐりしたのはリトルジョーという、アポロ司令船の脱出システムのテスト用に作られたロケットだ。レッドストーン・ロケットもあった。1章にあるコスモリアの展示に同じものがあるので比較されたい。レッドストーンの手前に、後述するJ-2エンジンも展示されている。
最初に見えたのは先端のエスケープロケットとアポロ宇宙船(司令船(コマンドモジュール)+機械船(サービスモジュール))だった。その後ろには4つに裂ける月着陸船アダプター(Spacecraft Lunar Module Adapter: SLA)と自動制御装置(Instrument Unit: IU)があった。
SLAには月着陸船が格納されていて、月に向かう途中でアポロ宇宙船とドッキングして一体化する。
IUはSLAと三段目の間にあるリング状のパーツで、実機でもプラモデルでもまったく目立たない。だがここはサターンロケットの頭脳だ。IBMが作った最先端のデジタルおよびアナログ電子機器がぎっしり並んでいる。その機器ラックや配線、コネクター類の重厚なこと。IU以外の場所にあった機器もあわせて貼っておく。60年代の技術だから集積回路は目の玉が飛び出るような価格だったにちがいない。
「私ソロある! セルフガイデッドある!」と言ったらオーライと手を振って去った。
やはり団体で見学する枠があるんだ、どうして自分はそこに加われなかったのだろう、などと思いながら全長110mのロケットを低いステージに向かって歩いた。
サターンVは2段目の働きで地球低軌道に乗る。そこから3段目で月遷移軌道に乗る。3段目はアポロ宇宙船とほぼ同じ軌道をとって月のそばを通り、その後も地球軌道周辺を漂流する。
F-1エンジンは液体水素ではなくケロシン(≒灯油)と液体酸素を燃料にする。J-2をトップギヤにたとえるなら、これはローギヤだ。速度よりも推力が重視されたデザインで、空気の薄いところまで機体を持ち上げるのが役割だ。
いっぽうアメリカのロケットは円筒を積んだ単純な形をしている。合理的なのだが、寸胴で面白味がない。だが、このとき私が悟ったのは「アメリカのロケットは2mまで近づかないと面白味がわからない」ということだ。以下に例を示そう。
ロシアのロケットは段間部がむき出しのトラス構造になっていることが多い。これもファンに愛されるチャームポイントなのだが、雰囲気は建築物だ。アメリカ機の段間部には航空機としての繊細さがある。
内之浦でM-Vロケットを見学したとき、「ここから上はA社、下はB社が作ってるの。飛行機屋さんが作ったところは飛行機の造りでしょ?」と説明されたことがある。アポロ計画の宇宙船やロケットはノースロップ、グラマン、ボーイング、ダグラス、IBMなど、アメリカ航空宇宙産業の総力戦になっているから、メーカーごとの違いを嗅ぎ分けるのも面白いだろう。
1段目、F-1エンジンのすぐそばに4枚のフィンがついている。これはサターンVのように推力偏向のできるロケットには不要なものだ。フィンがある点ではナチスドイツのV-2号ロケットに似ているが、目的はまったく異り、緊急時に宇宙飛行士を助けるためにある。
もしF-1エンジンのひとつが故障してあらぬ向きに噴射を始めると、ロケットの姿勢は急激に変化する。ロケットはぎりぎりの強度しかないので、濃い大気中で想定外の姿勢になると空中分解してしまう。
そんなとき、宇宙飛行士は先端にある脱出ロケットに点火して、コマンドモジュールごと逃げることになっているが、姿勢が急変すると100m離れた飛行士たちに強い遠心力がかかり、脱出操作を妨げることが予想された。
そこで「もしF-1エンジンが異常をきたしても、フィンがあれば姿勢の急変を緩和できるだろう」とフォン・ブラウンがアイデアを出した。彼はV-2号の開発者でもあるから、フィンに因縁を感じる。
フィンはプラモデルだと小さな矢羽根のように見えるが、桁部分で2.5mあり、間近に見ると凄みがある。断面は薄い菱形に近い5角形で、超音速を想定したものだ。ジュラルミンかステンレスの薄い板をリベットで止めていて、その鋭利さはX-15の垂直尾翼を連想させる。
たぶんこの耐火ボードの向こうに、正確に取り付けられた金属の底板があるのだろう。発射台で火をかぶるから耐火ボードを貼っとこう、でも取り付け精度はこれくらいでいいや、という判断だろうか。大事な場所では手間と金とテストを惜しまず、いっぽうで省ける手間は省く、アメリカ人の物作りを見た気がした。
そんな貴重な展示品が、ヒューストンに運ばれてから30年近く野ざらしになっていた。ロケットは初飛行から10分で使い捨てるものだから、長期間野外放置できるようには作られていない。痛みが激しいので、スミソニアンは各方面によびかけて資金を集め、ロケットのまわりに建屋をつくった。そして痛んでいた部分をレストアした。その経緯を示すパネルもある。レストアが終了して公開された のは私が訪ねる3か月前のことだった。
VRでロケットの中に入ったり、月面の重力を疑似体験することはできないが、リアルでしか得られない体験、気づきもたくさんある。
レンタカーを運転してヒューストンのダウンタウンを南下し、NASA Road 1という道路標識を見て乗り換え、ヒッチハイカーの女の子を拾うところから私のジョンソン宇宙センター訪問は始まっていた。
そして放心状態で駐車場に戻り、しばらく冷ましてからゲートを出て、クリアレイク沿いのメキシカンレストランでステーキとサラダを頼んだらシーフードが山盛りになったサラダだけでメインディッシュ3皿ぶんくらいあった――までが私のヒューストン体験だ。
VRとリアルのどっちがいいか、なんて議論はやめよう。現代のいいとこ取りをした先に、未来はあるのだから。
野尻抱介
SF作家、Maker、ニコニコ技術部員。1961年生まれ。三重県津市在住。計測制御・CADのプログラマー、ゲームデザイナーをへて専業作家になったが、現在は狩猟を通して自給自足を模索する兼業作家。『ふわふわの泉』『太陽の簒奪者』『沈黙のフライバイ』『南極点のピアピア動画』ほかで星雲賞7回受賞。宇宙作家クラブ会員。第一種銃猟免許、わな猟免許所持、第三級アマチュア無線技師。JQ2OYC。Twitter ID @nojiri_h