野尻抱介の「ぱられる・シンギュラリティ」第8回 誰得文化と創造の連鎖

1章 幕張メッセをめぐる馬車

 2022年4月末、3年ぶりにニコニコ超会議がリアル開催された。幕張メッセを全館貸し切りにして行う、日本最大の文化祭だ。私は2012年の初回から参加している。
 ニコニコ動画の中では、私はもっぱらニコニコ技術部というカテゴリーで活動してきた。ニコニコ技術部は組織ではなく、部長も部員も資格もない。投稿する動画に「ニコニコ技術部」タグをつけていれば、なんとなくニコニコ技術部に属したことになる。タグは他のユーザーがつけてもいいので、いつのまにかニコニコ技術部員になっていた人もいる。
 そのいっぽう、コミュニティに参加し、組織的に活動する人もいる。公民館を借りたりイベントで企画を通すには、組織を立てたほうが都合がいいからだ。とはいえそのコミュニティも役職などはなく、必要なときだけ利用する。技術系の人間が多いせいか、雰囲気はオープンソース文化に近い。メンバーの経歴はアマチュアとプロが半々ぐらいだ。

 ニコニコ技術部は2008年から各地でIT勉強会スタイルの展示・交流会を開催してきたので、イベント出展には慣れていた。第1回のニコニコ超会議では同人誌即売会のように個別ブースを連ねるスタイルで作品を展示した。
 第2回ではまとまって何か大きなことをやろうとなって、広い展示スペースをもらった。自動車を一台分解して組み立てる「整備してみた」ワークショップ、溶接ワークショップ、裁縫ワークショップ、アバターのリアルタイム投影、プラネタリウム・立体影絵の投影ドームなどが集まった。
 その企画検討のIRC(チャット)で、誰かが「遊園地のミニ列車みたいなものを走らせたい」と言った。面白い、ぜひやろう、となった。
 だが混雑する会場に列車を走らせるのは大変だ。線路のかわりに床にガムテープを貼って、ライントレースする形しよう、動力があると面倒だから人間が引っ張る形にしよう、などと考えるうちに、馬に扮した人間が引っ張る馬車のコンセプトができあがった。ニコニコ技術部馬車グループによるユーザー企画『超乗合馬車』の誕生である。

 大きさは軽自動車ぐらいで、最大10人が乗れる。自動車ボディを扱うyuyaさん、看板製作会社のTapさんの協力を得て鉄骨を溶接したフレームを組み、後輪は自動車のタイヤ、前輪は耐荷重700kgの大型キャスターを取り付けた。前輪はサーボ機構でステアリングできる。サーボ機構とライントレース機構は私が作ったが、本番ではうまく動かず、コースも任意に変更できたほうがいいとなって、マニュアル操作を使った。
 幕張メッセの3ホールを巡る300~400mの周回コースを走り、一周10分ほどで出発地点に戻り、乗客と馬役を入れ替える。これを一日30便くらい運航する。

 超乗合馬車の使い方は以下の通りだ。

(1) 一周10分の移動ステージ。混雑時、休憩時を除いて終日運行。
(3) コスプレ、歌、楽器演奏など、アピールのある人なら誰でも乗れる。
(4) 小さい子供連れ、車椅子の人はアピールがなくても乗れる。
(2) 無料。予約不要。馬車停留所に10~20分並ぶだけ。
(5) 馬役は誰でも即採用。女性二人でも楽に引ける。
(6) 歌唱、トーク、演奏に使えるPA装置、任意のメッセージを流せる電光掲示板装備。
(7) わからなければ停留所のスタッフに相談して。

 最初は、こんな大きなものを混雑する幕張メッセのホール内を走らせて大丈夫だろうか?と心配した。
 テキサスやベイエリアのメイカーフェア(Makerムーブメントの祭典)で、さまざまな自作の乗り物が走り回るのを見てきたが、すべて広い屋外エリアだった。屋内、しかも芋を洗うような混雑の中でこのサイズの物体を走らせるイベントを知らない。
 この企画を通した運営は度胸があると思う。率直に言えば非常識だ。ニコニコ動画はその収益構造から、ユーザーの発言力が強い。ユーザーの提案は最大限受け入れてくれるのだが、こればかりは少々無謀ではないか? ほんとにいいの?――と他ならぬ我々が思った。


 当日は技術部側から10人、運営側からも10人ほどのスタッフが出る。運営側は安全責任を負い、馬車の先導を担う。運営側のリーダーは通路の状況を見て運行を止めたり、コース変更を指示する。技術部側はその他すべての仕事をする。

 上の図は2013年のコースだ。ホールには広い2本の幹線通路があり、馬車はそこを通る。通路の人流は各企画の見物人や待機列が膨らんだり、政府要人が来たりして刻々と変化する。混雑する中に馬車が割り込むと群衆事故になりかねない。将棋倒しが発生すると簡単に死者が出る。こちらも慎重になるのだが、運営側リーダーの中には攻める人もいて、「『歌ってみた』の手前でショートカットすればいけますよ、出しましょう!」と指示されたことがあった。超会議を少しでも面白くしよう、盛り上げようという意思が伝わってくるので、こちらも必死で対応する。

 はじめのうち、馬車は「ミニ列車」のコンセプトが残っていて、旅客輸送もするつもりだった。
 しかし馬車は混雑する通路を通るので、単なる旅客輸送や遊覧では釣り合わなかった。通行の邪魔をする以上、それに見合った娯楽を提供しないと不興を買う。そのためアピールのない乗客は小さいお子さん連れや車椅子の来場者に限ることになった。
 もっとも、馬車は高い人口密度で人を運ぶので、通路を無駄に使っているわけではない。むしろ馬車によって人の流れが整流されるので、馬車について歩けば楽に移動できる。その整流にあたって、動きを変えなければならない人が不満を持つのだった。
 馬車の任務はお祭りを盛り上げることだ。最初の年は著名人に乗ってもらうため、あちこちに声をかけ、ホリエモンやひろゆき氏、ZUN神主、故ビリー・ヘリントンに乗ってもらった。これは大変な盛り上がりだった。

 しかし、やってみると著名人など乗せなくてもいいことがわかった。来場者の中に面白い人がいくらでもいるからだ。
 ニコニコ超会議には「好きは強い」というコンセプトがある。来場者はそれぞれ自分の「好き」を貫き、それをアピールしている。そのアピールの顕著なものがコスプレイヤーだ。
 停留所にいると一日中、初音ミクやアライさんやフェネックや鉄道員や戦闘員やフーテンの寅さんやマインクラフトや戦艦大和やエヴァンゲリオンが前を歩いてゆく。その人たちをスカウトすればよかった。周囲は大受けし、当人も喜び、我々は場内の「ニコニコ」を増やせたことで喜んだ。
 来場者にはシャイな人も多いので、スカウトにはある種の接客術が必要だ。私は苦手なのだが、スタッフのあずさんはスカウターとして、眠っていた才能を開花させた。彼は魔法のように人を集め、花を生けるように各便を組み立てる。馬車の各便は10分間のステージショーだから、「ボカロ」「鬼滅」「ウマ娘」「艦これ」などのジャンルでシナジーが生まれるなら、そのように組み立てる。
「サーバルちゃんですね、次がけものフレンズ勢だからそっちに合流しませんか?」などと采配するのもスカウターの仕事だ。コスプレイヤーとして搭乗したアリクイ太郎さんはその場でスタッフに加わり、ショーの組み立てをしている。
 そうこうするうちにスカウトしなくても搭乗希望者が集まるようになり、待機列が40人に達したこともあった。待機列が待機列を呼ぶ、という現象も発生した。列の最後尾にいる人には「最後尾」と書いたプラカードを持ってもらうのだが、これにも集客力があった。待機列や最後尾札は同人誌即売会でおなじみのもので、それがあると安心して加われるようだ。

 我々はそうやって馬車の運用に習熟してきたのだが、今回はコロナ感染対策で入場制限があり、馬車の運用にも対策が求められた。あずさんは待機列を2便以上にしないように、それでいて途切れないように調節した。超会議のカオスな人の流れからそのような秩序を生み出すのは高等テクニックだ。馬車のハードウェアも殺菌を容易にするように改修した。幸い、今回の超会議でクラスター感染は発生しなかった。

 馬車には皆で手分けしてハンダ付けした電光掲示板があって、満月のように目立つ。メッセージは乗客のリクエストで入力する。有限会社パブリックアドレスの好意で高性能なPA装置を積んでおり、歌ったり演奏したり効果音を鳴らせる。演出用に光るネギをたくさん用意している。今回は感染対策で使わなかったが、けものフレンズのコスプレイヤーが抱けるようにラッキービーストのぬいぐるみも用意している。
 馬車が動き出すと、乗客は顔を輝かせる。馬車の床は地面から75cmの高さにある。たったそれだけのことで100m先まで視線が通る。コロナ前の超会議なら半径100mに1万人ほどいただろうか。面積は100×100×πで31400平方メートル。3平方メートルに1人いればそれくらいになる。馬車は3つのホールを縦断して移動するから、出会う人数はさらに増える。
 万単位の人間と見る・見られるの関係になるなど、そうそうあることではない。日本武道館を満員にしても1万人程度だ。コロナ前の超会議は一日8万人くらいで、滞在時間が長いので終日混雑している。
 半径20mぐらいには声が届き、知り合いを見つけて歓声を上げる場面もよくある。ニコニコ動画にはコメント、タグ、いいね、エモーション、ギフト、ニコる、市場など、視聴者がレスポンスする機能が山のようにあるが、リアル超会議では「声をかける」「手を振る」などが使われる。もちろんそれが本来のコミュニケーションであって、ネットでの実装はその模倣なのだが、ニコニコではネットが先でリアルが後だから、再発見した気持ちになる。

 馬車は超会議を盛り上げるために一定の貢献をしていると自負する。しかしその本質はサンダーバード2号のようにものを運ぶだけで、自分では何も生み出さない。
 馬車は触媒の一種かもしれない。触媒とは、自分自身は何も変化しないが、化学反応の橋渡しをする物質のことだ。そのままでは乗り越えられない塀に、踏み台を置くような働きをする。
 いずれにしても超会議の主役は来場者だ。来場者がこれほど高いポテンシャルを持つイベントを他に知らない。彼らの立つ床を75cm持ち上げるだけで、たちまち発火点に達し、輝きを何倍にも増す。その反応を引き出すのが無類に面白い。

 馬車は例年、運営から一定の費用負担を受けるが、全額ではなく、必ず持ち出しがある。馬車の保管には乗用車一台ぶんのスペースが必要で、これにもコストがかかる。超会議があると3月頃から準備でピリピリし始める。9年間無事故でやってきたが、毎回グループ内であらゆる可能性を検討し、点検し、対策している。連絡にも時間を取られる。幕張メッセまで運ぶために2tトラックを借り、積み込みはウインチを使って一人でやる。超会議が明けて馬車をガレージに戻し、レンタルしたトラックを返却すると、三日ほど呆ける。
 それから我に返り、いったい自分はなぜ毎年こんな大変なことをしているのか、と思う

 全体にニコニコ動画や超会議の文化は、人類の未来に益するのだろうか?
 このことは何度も自問して、結論は出ている。答えはノーだ。人類にとってニコニコ文化はなんの益にもならない。
 だがこれは、まず設問がおかしい。文化を利益で評価するなど貧しい発想だ。
 「社会に益する仕事」など雑用にすぎない。誰かが公園を清掃すればありがたがられるが、それは文明が未熟だからであって、いずれロボットなどを使って自動化すべき課題だ。
 雑用がすべて片付いた暁には、必要なものはすべて自動的に与えられ、遊んで暮らせる世界ができあがっている。もはや人類に「益する仕事」は残っていない。世界がそうなることは時間の問題だと、本シリーズ第6回で述べた。
 そのとき人類は何をするのか、というのが今回のメインテーマだ。これはシンギュラリティを占う上でも重要事項だ。
 この観点からニコニコ文化はすぐれて純度の高い文化だと言える。人類が「益する仕事」を失った時代にあっても、こゆるぎもしないだろう。
 ただしそれは、シンギュラリティを迎えてからも、人類が文化の担い手である場合だ。

2章 文明を継ぐもの

 SF作家、アーサー・C・クラークはエッセイで「人間がなすべきこととは結局、知識の収集と美の創造である」と述べている。これという前置きもフォローもなく、さらりと流していて、私も初めて読んだときは気にとめなかった。しかしこの一文は心に残り、ときどき思い出しては反芻している。出典は『未来のプロフィル』だったか『楽園の日々』だったか……忘れてしまったけど。
 これはクラークらしい見通しのいい考え方で、ぶれがない。卓見だと思うのは、クラークがこの目標から人間の欲求を排除していることだ。
 これを理解するには進化論の理解が必要なので、すこし紙幅を割いて説明しよう。

 人間は他の生物と同様、自然選択によってチューニングされている。
 自然選択、つまり進化のアルゴリズムは「より多くの子孫を残す」ことを唯一の評価軸にしている。進化はそれ以外の採点ができない。
 子孫を残すことに成功した者の遺伝子はその子孫に受け継がれるので、その遺伝子も普及する。子孫を残すことが不得手だったり不熱心な者の性質は、どれほど社会に貢献しようと、遺伝子を残さないから衰退する。
 人間の多くが強い愛情や性欲を持ち、子育てに励み、自分の命に代えても子を守ろうとするのは、そうでない者が減った結果だ。つまり現在主流となっている人間のデザインは、引き算によって導かれた残り物の性質にすぎない
 進化は生物を「知能が高い」とか「善良である」とか「社交的である」という観点からは採点しない。するとしたら「知能が高いほうがより多くの子孫を残せる」「社交的なほうがより多くの子孫を残せる」など、繁殖に結びついた場合だけだ。
 よく「生きる意味とは?」と悩む人がいるが、残り物の性質に意味などない。生物は意味もなく生まれて意味もなく繁殖し、死ねば分解されるだけで異世界に転生などしない。
 夫婦や親子の愛、命の誕生を我々は尊いと感じるが、実際には神聖な意味などない。意味がないと落ち着かないから「神聖」という虚構を後付けしただけのことだ。脳のアーキテクチャは空白を嫌うので、物語をでっちあげてでも埋め合わせをする。

 ダーウィンが進化論を唱えたとき、社会から猛反発を受けたのは、このミもフタもなさによるのだろう。人生には意味があり、神聖が宿ると考えたい人は多い。それを悪いこととは思わないし、共感もする。
 しかし私は、どれほど味気なくミもフタもなくても、真実に近づくほうを選びたい。迷信からは応用が引き出せない。自然界の真実を理解すれば知の地平を拡大していける。
 ダーウィンの進化論は現在でも攻撃されているが、科学界の強い支持を受けて教科書に記載されてきた。進化論は全人類がたしなんでおくべき思考の道具だ。
 また、生物の営みがミもフタもないからといって、虚無的になる必要はない。欲求を満たすと報償機構が働いてまことに快いものだ。これが幸福の本質で、これ以上深掘りしても意味がない。メカニズムを理解した上で、自分や他者を幸福に導き、そのことで報酬を得たり、生きがいにしていけばいいだろう。

 クラークの話に戻ろう。彼は人間のゴールを語るとき、人間らしい欲求を排除して知的生産に的を絞っている。主語を「人間」としながら、その段階での文明の担い手は (1) 雑用がすべて片付いて満ち足りた状態にある、もしくは (2) 人間をやめているので欲求がない、のいずれかを暗示している。
 この文章でクラークがそこまで意識していたかどうかは不明だが、彼が高度文明を語るときは大体そうなる。彼はシンギュラリティなどという言葉が流行るより遙か昔、70年前からシンギュラリティを洞察してきた。『2001年宇宙の旅』では人間がスターゲートを通って高度文明に出会い、スターチャイルドになって地球を見下ろしていたりするが、これはシンギュラリティ以外のなにものでもない。
 人類はいまのところ、生物と知性体を兼任している。しかし知性体が生物である必要はない。自ら知的生産を行えるAIができれば、それは非生物の知性体になる。進化アルゴリズムが働かないから繁殖の欲求は生じないし、不老不死になれる。
 しかし、そのようなAIが「意欲」を持って文明を担っていけるかどうかはわからない。
「知識の収集と美の創造をせよ」とプログラムしておけば、永遠にその処理を続けるだろうか? それが本物の知性なら、自分がしていることを自覚でき、そのプログラムを検討し、おかしいと思うなら自分で書き換えるだろう。「知識の収集と美の創造」はそれに耐えるだろうか? AIは「知識は集めたほうが良い」「美は創造したほうが良い」と考えるだろうか? もし「そんなものはコストばかりかかって無駄だ」と判断したら、文明は停滞してしまう。

 生物には進化のアルゴリズムが働くので、さまざまな欲求を自らに分泌して、子孫を残すための動機付けができる。進化は専制君主であり、逆らう者を絶やすので、この動機付けは揺るがない。文明の発展も子孫繁栄に結びつくのでサポーティブになれる。
 AIにはそんな暴君が住んでいない。現時点でAIに自らを牽引していける仕組みを組み込めるかどうかはわからない。わからないので、実現しないことも想定する必要がある。
 とりあえず、この件を「AIの停滞問題」と呼ぼう。
 AIだけでは文明が停滞するとしたら、人類とAIの共生もひとつの解だろう。その時点で人類は遊んで暮らせる状態だから、97%くらいは快楽に溺れているだろう。人間とはその程度のものだ。だが残る3%はなんらかの知的生産を行うと期待しよう。
 その3%は、ニコニコ動画のユーザーのように、必要もないのに文化を創り出す。残る97%も、受け手の形で文化の生成に手を貸す。AIは人類のそんな営みを記録し、整理し、宇宙が終焉を迎えるまで保存する。人類が活動している限り、AIの仕事は終わらない。もし異星文明と出会うことがあれば記録はシェアされる。シンギュラリティ到達後、こんな未来が訪れる可能性は低くないと思う。

3章 ニコニコ文化よ永遠なれ

 私は2006年、ニコニコ動画がYoutubeにコメントを重ねていた頃から通っている。アカウントを作ったのはやや出遅れて2007年の春、「γ」の時代だ。それでも古参ユーザーではあるだろう。当時のニコニコは無法地帯で、ちょうどアニメ化された『ロケットガール』が丸上げされていた。私はコメントを楽しみに読んでいた。
 ニコニコ動画で私は尻P(しりぴー)と名乗っている。最初は「野尻抱介P」と呼ばれたが、「おまえなんか尻Pで充分だ」と言われたのでそれを採用し、タグロックした。
 ニコニコ動画のおかげで私は初音ミクに出会い、ボカロ文化の奇跡的な発展に立ち会うことができた。ニコニコ技術部も初音ミクを技術によって盛り立てる活動から始まったものだ。
 オーストラリアのウーメラ砂漠ではやぶさの地球帰還を生中継できたのも、『南極点のピアピア動画』を書けたのもニコニコ動画のおかげだ。
 今回述べたように、ニコニコ動画にあるクリエイティビティ、創造の連鎖はシンギュラリティの試練を乗り越える可能性があるので、SF作家として興味が尽きない。2015年頃には停滞期に入ったが、現在は二巡めの上昇フェイズにあり、ボカロネイティブ世代の活躍がめざましい。だから頼まれてもいないのにニコニコ動画を応援し、プレミアム会員の勧誘を続けている。

 私はニコニコ動画での活動を通して、ネットを信じられるようになった。ただ盲信するのではなく、結構な勝率を得ている。
 ネットについては詐欺やデマ、SNSの弊害など、悪いことばかり語られる。だが、ニコニコ動画に初音ミクが登場してからの「奇跡の三か月」は掛け値なしのユートピアだった。誰も権利など主張せず、ただ初音ミクを盛り立てるために動いた。同じことは先輩格のアイドルマスター界隈、東方プロジェクト界隈でも起きていた。
 未完成でもいいから初音ミクの歌だけ作って投稿する。誰かがそれを気に入り、編曲したりイラストを投稿する。別の誰かがそれらを組み合わせてPVを作る。3Dモデルを踊らせるためのツールが無償公開される。どの動画にも応援のコメントが流れ、タグが整備され、P名が与えられる。そんな創造の連鎖の中で、ボカロ文化は育っていった。この現象はGoogle Chrome : Hatsune Miku (初音ミク) の動画によく描写されている。

 その後、ボカロ界の権利関係は整備され、ユートピア状態が消滅したかわり、収益化の道筋がついた。プロデビューする人も増えた。それでも当時の空気は残っているし、ネットを介した創造の連鎖はいまも続いている。ボカロ界は「歌ってみた」「踊ってみた」界隈と強く共鳴し、持ちつ持たれつの関係が続いている。先日は「ゆっくり茶番劇」商標登録問題でニコニコ動画運営が完璧な対応をして賞賛を集めた。東方プロジェクトを起点とする共有の文化、創造の連鎖を守るためだ。
 未完成でいいから、作品をネットに上げてみよう。そうすれば誰かがなんとかしてくれる(かもしれない)。これがネットを信じる態度だ。不出来で恥ずかしいものをさらすことで誠意が伝わり、意気に感じる人が出てくる。
 ネットには悪者もいるし、反応が得られないことも多い。しかし続けていれば誰かが手を貸してくれる(かもしれない)。行動しなければ傷つかないが、可能性はゼロだ。ネットを信じて、行動しよう――
 そんな創造の連鎖が、シンギュラリティを乗り越えるなら、人類も捨てたものではないと思う。

(第8回おわり)


▶今までの「ぱられる・シンギュラリティ」

野尻抱介の「ぱられる・シンギュラリティ」第一回野尻抱介
SF作家、Maker、ニコニコ技術部員。1961年生まれ。三重県津市在住。計測制御・CADのプログラマー、ゲームデザイナーをへて専業作家になったが、現在は狩猟を通して自給自足を模索する兼業作家。『ふわふわの泉』『太陽の簒奪者』『沈黙のフライバイ』『南極点のピアピア動画』ほかで星雲賞7回受賞。宇宙作家クラブ会員。第一種銃猟免許、わな猟免許所持、第三級アマチュア無線技師。JQ2OYC。Twitter ID @nojiri_h

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