本屋の本音のあのねのね 第四冊~「ゆるキャン△」一体いつから・・・ゆるいと錯覚していた?~

「ゆるい」とは、“脱力的”な価値観を表現する言葉である。キツくない/厳しくない/かたくるしくない……だいたいそんな意味だ。これこそ、2021年がもっとも求めるパワーワードじゃないだろうか。

これまでは「ゆとり世代」の「ゆとり」と同じで、どちらかといえば若い世代を揶揄するネガティブ寄りの言葉だったと思う。イケイケなバブル世代・シビアな団塊ジュニア世代には受け入れられない、ミレニアル世代・Z世代を象徴する、腑抜けた価値観を示す言葉だったのだ。

おっさんらしくガンダムで例えると、ゆるジェットストリームアタックとか、ゆる強化人間とか、ゆるコロニー落としとか、そんなんあったらイヤでしょう。ぼくはイヤです。コロニー落としは、マジメに、気合を入れてやれ!わかりました、デラーズ閣下!

その潮目が変わってきたのは、やはり、日本社会がちょっと「斜陽気味に停滞」してきてからだと思う。いや、このさい、衰退が始まってから、とはっきり言ってしまったほうがいいかもしれない。ガツガツやっても、大して報われない。それどころか、人類史上、もっとも貧富の差がひらいたのは、まさにこの現代なのだ。持てる者はさらに富み、持たざる者はさらに堕ち、少数のセレブだけがこの世の春を謳歌する。こんな時代に、いったい汗水たらしてがんばることにどんな意味があるっていうんだ。もっと世の中「ゆる」くてもいいんじゃないか……と、だれもが気づきはじめた瞬間である。

さて、そんな時代の空気のなかで、いろいろなものが「ゆる」化していった。もとから薄々「ゆる」かったものはまだしも、それまで「ゆる」と無縁だったものまで、続々と「ゆる」化したのである。ゆるキャラ、ゆるコーデ、ゆるカワ、ゆるぼ、ゆるポタ、ゆるキャリ、ゆるゆり……「ゆる」がゲシュタルト崩壊しそうだが、中にはそんなもんまで「ゆる」くするの?というのもある。「キャンプ」もそのひとつだろう。

実はこういうことにはめずらしく、キャンプを「ゆる」くした犯人はわかっている。

女子高生キャンプマンガ「ゆるキャン△」(著:あfろ 芳文社)のしわざである。

おかげである、というべきかもしれない。昨今のキャンプブームは、キャンプが「ゆる」くなった結果だといっても過言ではなく、それは「ゆるキャン△」によってもたらされたものだからだ。

というわけで、今回のお題は「ゆるキャン△」です。正直、初めてタイトルを聞いたとき、「ふざけやがって、キャンプ舐めてんじゃねー」と思ったものだ。

……いや、まあ、えらそうに言ってて自分、キャンプしたことないんですが。

ああっ、本を投げないでー

でも、この憤り、というか違和感? なんとなくわかっていただけると思うのだ。だって、キャンプって、なんかこう、もともと「静かな男のアウトドア」ってイメージを推してきたじゃないですか? 夜の闇の中、ぱちぱち爆ぜる焚き火のかたわらで、ガチムチな髭面の山男が、寡黙に肉を焼きつつ、そのあいまにスキットルのウィスキーをちびりちびり舐める感じ。ハムのCM?みたいな。少なくとも、こういうキャンプ観に、「ゆる」さはなかったはずだ。

ところが、そういう古いキャンプ観を叩き壊し(というより、相手にする価値もない、とスルーし)、かつ新しい時代にあわせてアップデートし、あまつさえ新規のキャンプユーザーまで開拓してしまった革新的なマンガ、それが「ゆるキャン△」だ。

「ゆるキャン△」について、いざ説明しよう、と思ったのだが、あれ、すごくシンプルな話なのに、けっこう書きにくいな……と気づいた。それは、ひとえに、「ゆるキャン△」が“強弱のはっきりしない”、つまり起承転結のある物語ではないからだろう。

別にラスボスがいるわけでもない。キャンプするにしてもはっきりした目的があるわけでもない。まさにタイトルどおり、ひたすら「ゆる」くキャンプするだけのマンガである。高校生活などまるで存在しないかのように、恋愛もないし、人間関係のトラブルもないし、なにか乗り越えるべき壁もない。舞台は山梨を中心とした実在のものをモデルにしていることがおおいが、そのわりに現実社会はまったく描かれない。

登場するキャラクターも少ない。まずW主人公「志摩リン」「各務原なでしこ」、それに野外活動サークル(略して「野クル」)の「大垣千明」と「犬山あおい」、そしてリンの数少ない友人である帰宅部の「斉藤恵那」。野クルの顧問である教師「鳥羽美波」。この五人の女子高生と一人の女教師だけで、ほぼ話は進む(多少のゲストはいる)。とにかくストーリーは、こういう感じだ。

……山梨に引っ越してきたなでしこは、本栖湖でキャンプしていたリンと出会い、キャンプの魅力にはまっていく。転校先の高校でさっそく「野クル」に入り、千秋・あおいと意気投合してキャンプに行くことになる。その後も、リンとの四尾連湖キャンプ、そして野クル+リン・恵那を加えたフルメンバーによるクリスマスキャンプ(略してクリキャン)、伊豆キャンを経て、さらにメンバーそれぞれがさまざまなキャンプを楽しんでいく。……

実にシンプルですね。

基本、とにかくどっかへキャンプに行く、その行く前後のプロセス含め、おもしろおかしく描く、という流れが繰り返していく。

いわば、現実性が希薄で、人間関係も不自然にかぎられた「閉じた世界」のなかで、彼女たちは、ただ「ゆる」い、まったりとした時間をすごし、キャンプを楽しんでいる。苦しさ、めんどうくささを徹底的に排し、コストと時間のパフォーマンスを異常に追求する「コスパ・タイパ主義者」にしてみれば、まさに天国のような世界観である(もちろん、セカイ系、なろう系に通じるものだろう)。ぼくは、実はここに、ちょっとした罠というか、作者あfろ氏の皮肉というか、そういう仕掛けがあるように思っている。そのことは最後に説明するとして、まずはこの「閉じた世界」を描くうえで、画期的なマンガ的手法が採用されていることを強調しておいていいだろう。

出典:ゆるキャン△ ©あfろ・芳文社

それはLINEを彷彿とさせるSNS描写である。SNSをはさんで、彼女たちは時間・空間を越えて、縦横無尽に会話しまくる。みんなで○○キャンプ場に行こう!みたいなシングルタスクではない。実に現代的に、物語自体がマルチタスクで進行する(だから、ひとによっては、読むのがしんどいかもしれない)。

たとえば、リンが長野に行くのと時を同じくして、別チームが山梨でキャンプしたりして、そのふたつの物語は、SNSを通じて「共時的」にあつかわれ、進行する。片方が食事をしているとき、もう片方は温泉上がりで休憩中、とか。SNSに慣れ親しんだ現代の四〇代以下のひとびとにとっては、別に特別なことではなく、日常的な、あたりまえの感覚だろう。ぼくもふつうにあたりまえだと思った。だからこの手法の画期性も、まったく評価されてこなかった。だが、マンガの作り方として、これはありそうでなかったものだ。

ストーリー線が“複線”であること自体はめずらしいことではない。たとえば天下の「ワンピース」だって、毎回麦わらの一味のメンツは散り散りバラバラになる。そして、それぞれのチームごとに事件がおき、それらがクライマックスにむけて収束し、大団円……というのが水戸黄門並みにお約束の物語構造である(是非はともあれ)。そういう点で、「ゆるキャン△」のマルチタスクも、それだけなら目新しくはない。

なにが画期的かというと、五人の女子高生は、SNSグループで常時接続していて、本来であれば時間・空間的に遠く隔たっているはずの、他者の物語に「混入」できてしまうという点だ。しかもこれが、たとえばサイバースペースだったり、攻殻機動隊的な電脳の接続だったりでなく、ごく日常的なふつうの女子高生によって実現しているというのが、ぼくに驚きを感じさせた。こうした手法の行きつく先が、物語構造そのものをメタ的にしてしまうのは必然的な帰結である。

最新12巻(2021年6月時点)では、まさにメタメタになったキャンプ話が語られることになる。ついには会話中に「ワイプ」、つまりテレビ画面のすみっこに小さく区切られたサブ画面のような窓まで登場し、なでしこがワイプからどんどんツッコミする、という、前衛的な演出まで出てくるくらいだ。しかも、最後には通常空間にいた全員が、そのワイプの中に消えていき、残されたのは現実には存在せず、ただの狂言回しとして登場してきた「仮想犬キャラ・はんぺん」だけとなるのだから、もうなんの前衛劇なんだか。オチでは、はんぺんがついにしゃべりだしてしまう。

出典:ゆるキャン△ ©あfろ・芳文社

たぶん、この「やけくそキャンプ編」は本来「ゆるキャン△」がターゲットに想定している読者には、微妙な内容になっていると思うが、作者あfろ氏はどちらかといえば、こういうテクニカルなマンガのほうが好みなのではないかと思う。

さて、ともかくSNSによって、擬似的とはいえ常時接続している彼女たちなのだが、さらにおもしろいのは、そのわりに「現実への接続」にも積極的だ、ということだ。引きこもるどころか、逆にアクティブに、動き回る。

たとえば、キャンプおぼえたてのなでしこは、2週連続でキャンプして、「ストロングスタイルだなー、おまえ」などといわれる。あるいは、「薪」に使える木材の配布がある、と聞いただけで、千明は顧問の鳥羽先生を動員し、車で現地に飛んでいく。SNSだけしていて、行動はしない、というわけではないのである。

むしろ、ゆえにこそ「キャンプ」というアクティビティが選ばれたのかもしれない。なにせ、キャンプほどに、リアルな体験がすべてであるホビーもないからだ。疑似キャンプになど意味はない。VRゴーグルでライブを見ても、まったく意味がないのと同じだ。現実の臨場感を、どんなにテクノロジーが再現したところで、リアルの経験を「代替」はできない。この時代に、キャンプブームがおこったのは、そうした「体験の一回性」を取り戻そうとする企てでもあったはずだ。

さて、「ゆるキャン△」の序盤は、ソロキャン(ひとりで行くキャンプ)とグルキャン(グループキャンプ)が並走するように物語が進むことがおおいが、しばしばSNSはそのふたつをつなぐ架け橋となっている。また、熱を出してリンと約束していたキャンプにいけなくなったなでしこが、SNS経由で病床からリンをナビする「私の屍をこえていけキャンプ」という変わり種もある。

いずれにしても、SNSがあることによって、「ゆるキャン△」は、どんなスタイルのキャンプであろうと、会話劇にしやすくなっているのはたしかだろう。ある意味、ひとりになりにくい、ともいえるだろうか。だからこそ、ソロキャンについて、リンに「ソロキャンは さびしさも楽しむものなんだ」ときっちり語らせておく作者あfろ氏のクレバーさには、感嘆の言葉もない。

出典:ゆるキャン△ ©あfろ・芳文社

みんなで一緒がいい、それが正義だ、だから一人になろうとするのは悪だ……的な、くだらない日本型集団主義など、圧倒的な富士山の眺望をまえに、ひとり湖畔にたたずんで読書にふけるリンの満ち足りた姿が、一発で吹き飛ばすだろう。また一方で、気心知れた友達とすごす時間の楽しさも、かけがえのないものだ、とも、クリキャンや伊豆キャンを通じて示している。つまり、ひとりでも、みんなでも、キャンプは楽しい。とにかくユー始めちゃいなよ、的なノリでいいのだ。

そう書いていてふと気がついたのだが、このケムールでも、アイドルさんがソロキャンに挑戦する企画やってたり(ぼっ、ぼくスタッフやるう)、メスティンを使った外ゴハンを作る企画をやってたり、あれれ、これって「ゆるキャン△」だらけじゃないですか。

「ひよっこキャンパーけものみち〜1日目〜」はこちら>>
「登山、キャンプ、BBQ……ひとりでも美味しいアウトドア飯」はこちら>>

そう、あらためて指摘すると、いつのまにか、この日本では空前のキャンプブームなのである。しかもこのブームは、メディアの煽ったものではなく、なんというか、時代の要請みたいなところがある。芸人の「ヒロシ」さんが趣味のキャンプを動画配信してたら、プロモとかマーケの仕掛けなしに、とてつもないフォロワーを抱えるYouTuberになっちゃった、みたいなのは極めて示唆的だ。

本音をいえば、ぼくたちは、もう、だれかに「操られて」流行に巻き込まれるのにうんざりなのである。もちろん、その操作があまりに巧みで、まるで自分たちの意思でやっていると思わされているだけで、実際にはなんらかのメディア操作が介在している、ということはあるだろう。SNSがこれだけ普及し、ひとびとの行動の動機づけになってしまっている以上、それは避けられないことでもある。

ただ、それでも、できうるかぎり、ぼくたちは「自分の意思」で選び取りたいのだと思う。遊びくらい、自分の自由にさせてもらいたいじゃないか。そしておそらく「ゆるキャン△」のヒットも、こうしたひとびとの「遊びの自立心」を背景にしているのだ。

キャンプというアウトドアには、そもそも、自立心を前提としたところがある。テントの立てかた・火の起こしかたなど、定番スキルはたしかにあるが、あくまでも定番というだけで、必須ではない。どこでやるか、いつやるかなど条件は無限にことなり、「同じキャンプ」はふたつと存在しない。たとえばサッカーや野球だって、同じ試合はふたつとないが、ルールという枠組みはある。試合は決まった形や大きさの競技場で、決まった時間内で行われ、そういう意味で「再現性」はある、といえる。

しかしキャンプは、そもそも競技でないから、ルールがない。従うべき「マナー」はあるし、キャンプ場には守るべきルールがあるが、それはサッカーにおける「フィールドプレイヤーは手を使ってはいけない」というルールとは、次元がちがう話だ。

したがってキャンパーたちは、自分でどうするかを考える。だれも、なにかを強制しない。そういうところが自立的であり、また自立した自由を楽しむことこそが醍醐味なのだといえる。そもそも、自然というものは、そんなに人類に「優しく」はない。自然がわれわれに配慮してくれない以上、キャンプする際には自分で安全を担保しないといけない。そういう点でも、キャンプは自立をうながしてくるホビーだ。

そしてこの「遊びの自立心」を、側面から支援するものとして、「ゆる」さがクローズアップされてきたのだ。マジメにやらないとキャンプだって十分危険なホビーだが(実際作中でも、冬期のキャンプの危険性をあつかうエピソードがちゃんとある。6巻・山中湖キャンプ編)、そういうところをケアしさえすれば、「だれでも」楽しめ、「多少いいかげんでも」いい、つまり「ゆる」くていい、そういう懐の広いホビーだということを“暴露”してしまったのが「ゆるキャン△」だ。

「暴露」とは、おだやかじゃないが「ゆるキャン△」が成し遂げたことを表現するのに、この表現がいちばん適していると思う。どんなものにも権威はあり、それを後生大事に奉るひとびとがいる。キャンプにしても、技術の高いベテランや、高額なギアを所有する富裕層が、キャンパーのヒエラルキーの上位に位置し、下々の貧しく・未熟なキャンパーを「我慢して見守っている」というイメージは少なからず存在した、とぼくは思う。

しかし、そんなものはただのくだらないコンプレックスに過ぎなかったのだ。ガチンコキャンパーを否定はしないが、“ゆるキャンパー”もまったく問題ないのだ。キャンプというホビーのおもしろさは、実は、年季や持っているギアの値段で決まるものではないんですよと。「ゆるキャン△」というマンガは、そんなふうにキャンプを開放してしまった。

そもそもタイトルが「ゆるキャン△」という時点で、既存のキャンプ勢力に対する十分な挑戦状になっているわけだが、実際のマンガのなかでも、そうしたアンチテーゼはいたるところに示されている。

「ゆるキャン△」一巻、一話目、まさに冒頭のところで、すでにこの鮮烈な暴露宣言はなされている。迷子になったなでしこが、リンに助けられて、彼女の宿営地でひとやすみすることになったシーン。空腹で腹の虫がなるなでしこに、リンは「カレーめん」を差し出す。

出典:ゆるキャン△ ©あfろ・芳文社

このカレーめんこそは、「ゆるキャン△」という作品が、今後、そこそこ意図的に、キャンプの「権威」を解体していくよ、という決意表明である。

おいおい、大袈裟じゃないか、ただ軽食としてちょうどいいから登場しただけのインスタント食品の、どこが決意なんだ……そう失笑する方もいるだろう。

まあ、多少は盛ったところもあるが、ぼくは本気である。つまり、「冬のキャンプは焚き火でゴージャス肉!」とか「ソロキャン飯をフルコースに変える七種スパイス!」とか、そういうんでなしに、ただのカップ麺で、キャンプは立派に成立するし、しかもその快楽たるや、人生を一変させてしまうほどのインパクトたりうる。カレーめんはそう示すための“ロールモデル”なのである。

だって、単なるカレーめんですよ?

アウトドアショップで見回せば鼻血出そうな高額ギアばかり、そういうアウトドアを描いていこうとしているマンガの第一話で、メイングルメが、カレーめん。その意図は明白ではないか。

「かけた金に、快楽は比例する」のがこれまでのキャンプ観であった。いや、社会全体の価値観も、似たようなものだったはずだ。その真逆、というより、そうした共同幻想自体を無効化し、キャンプの、ひいてはある個人がなにかを「楽しむ」ということが、先行世代の既得権益やマウント取りのために歪まされることなく、おのれ自身のたしかな「実感」だけでそれを測られるべきものであること。そういうことを、「ゆるキャン△」は冒頭から明言しているのだ。

出典:ゆるキャン△ ©あfろ・芳文社

さらに、なでしこはこのカレーめんを、このうえなく旨そうに、喰う。「なんだ、ただのインスタントラーメンか」みたいな生意気な文句などいっさいいわない。それどころか、まわりがドン引くくらい、圧倒的な満足感を示す。「ゆるキャン△」という作品が、カレーめんを(それが象徴する「ゆる」いキャンプを)全面的に「是認」する、という宣言でもある。

この、なでしこというキャラクター造形も、リンと並んで秀逸だ。なでしこは初心者キャンパーのいわばシンボリックな代弁者として登場している。食いしん坊キャラは生来のものであるが、キャンプの魅力に取り憑かれてからは「純粋な初心者キャンパー」のあるべき姿を体現しつづけていく。つまり、なにをやるにも、キャンプのすべてが楽しくてたまらない、そういうピュアな感動を、なでしこは示しつづける。

彼女にくわえて野クルの千秋やあおい、後に合流する恵那とともに、この初心者四名は「ゆるキャン△」というマンガの「ゆる」さを、笑いとともに示していく。たとえば、手持ちのシュラフ(寝袋)が夏用しかなく、冬用がないことをなにか工夫で代用できないか、と奮闘する話がある。そこでシュラフに、プチプチやアルミホイルなどさまざまなものを巻きつけていくのだが、最後には(保温性はたしかに高くなったが)こういうことになった。

出典:ゆるキャン△ ©あfろ・芳文社

貧乏学生のやらかす滑稽な奇行は、本人は必死だからこそ、よけいにおかしい。なでしこたち野クルのメンバーは、その後も金欠キャンパーらしいドタバタを繰り広げるが、その姿に共感と、また勇気づけられてしまう(お金のない)読者も多いであろう。といっても、なんだかんだで徐々にキャンプギアはそろっていく(チェア、タープ、焚き火台、ガスランプ、etc.)が、むろんそこでも小市民的な笑い要素がちゃんとあって、金持ちキャンパーのオラつき感など微塵もない。

誤解なきように強調しておきたいが、「ゆるキャン△」という作品・その作者あfろ氏に、権威を明確な悪役として叩こうとするような、挑戦的・攻撃的意図はいっさいないと断言できる。それはこのマンガを読めばわかる。ただ、できあがってしまったマンガは、結果として、オールドスタイルなキャンプ業界にとって劇薬だった、というだけだ。

あfろ氏は、とてもクレバーな作家だと、ぼくは思っている。そうした炎上の種はたくみに伏せつつも、時代がなにを求めているかを察知はしていて、その空気感を意識的に作品に反映させたのはまちがいない。
そうでなければ、一発目からカレーめんは出せなかっただろう。

出典:ゆるキャン△ ©あfろ・芳文社

ところで「ゆるキャン△」は、意外と遅咲きの花だ。一巻目のコミックスが出たあたり(2015年冬)では、まだミドルヒット、ってくらいの作品だったと思う。店にアニメ化宣材の立て看板が届いてはじめて、ぼくはアニメ化を知ったくらいだ。このアニメ化(2018年冬)をきっかけに大ブレイク。コミックスは爆発的に部数を伸ばし、アニメは二期も放映され、さらに実写ドラマにもなってすこぶる評判がよい(再現度が高すぎ)。

いまや、現在のキャンプブームを牽引するともいわれ、作中登場した山梨近辺のキャンプ場はちょっと前なら満員御礼(コロナェ……)。特にそれまでシーズンオフとされていた「冬キャンプ」を描く作品だったため、冬期の利用客が激増したことはメディアに驚きをもってとりあげられた。登場キャラが使うキャンプギアも売上爆増、コラボグッズもひくてあまた。聖地巡礼のためのガイドでは近辺自治体の観光協会との連携もいい。ガルパンの大洗以来の、コンテンツ・ツーリズムの成功例といえる。

漫画家ならだれもが「こういうふうに売れたい」と思うにちがいない。

なお、その作者「あfろ」氏だが、あらためて調べてみると、謎につつまれた作家だ。性別・年齢など、個人情報はほとんど非公開。発表作もおおくはない。そんな「あfろ」氏のアウトドア趣味が土台となって「ゆるキャン」は生まれたわけである。今の成功は、ほぼ「ゆるキャン」一作で獲得したものだといってよいだろう。だが、もちろん、趣味をマンガにすれば、だれだって「ゆるキャン」みたいに成功するわけではない。

なぜ、「ゆるキャン」は当たって“しまった”のだろう?

実は、アニメ化されたころから、ずっと疑問だった。なぜなら「ゆるキャン」は、典型的な“趣味系マンガ”であり、つまりは手堅くニッチを狙った、パターナリズムと安易な記号化にたよった、どちらかといえば安直で、小さくまとまっただけのマンガだと思っていたからだ。少なくとも、当初、ぼくはそう思っていた。

なのに、あきらかにこの売れ方は、「ゆるキャン」にエポックメイキングな力があることを示している。このマンガの中のなにかが、時代の空気を的確に映し出し、ひとびとに求められているのでなければ、おかしい。
ただ単に、アウトドアブームに運良く乗れたから、だけでは説明がつかないのだ。

アニメ化がきっかけになった、というのは、本質的な理由ではない。もちろんアニメ化によって、それまで足りなかった知名度が補われたのはたしかだろう。そもそもアニメ化というメディア戦術はそのためにこそ行われるのだから。だが、知名度が上がっても、それが受け入れられるかどうかは別の話だ。

そもそもの背景として、こうした趣味系マンガが隆盛を極めているという出版業界事情がある。

グルメ系といわれるジャンルはこの五年で一大勢力となったし、カメラ・自転車・映画・フィギュア・サバゲー・バイク、もはやあらゆるホビーが題材となり、マンガがその入門教材となった。つまり、そういう状況の中にあっては、平凡な趣味系マンガなど埋没してしまうだろうと思っていたのだ。そうはならなかったのは、なぜだろう?あfろ氏みずからが、「ゆるキャン」の次に連載を開始した「mono」の中で、作中の漫画家にこう語らせている。

「女子高生4コマって事は スポーツとかバンドとか ちょい足しするマンガって事だよね」

「ちょい足し」!!!

あまりに率直というか、赤裸々すぎる表現ではあろう。ちなみに「ちょい足し」とは、たとえば吉野家の牛丼になにかトッピングしたり、日清チキンラーメンをアレンジしたり、つまりなにかをちょっとだけ足すことで、単調な味を飛躍的においしく変えてしまう、という小技のことだ。

マンガの作り方としては夢のない話だが、たしかにそのとおりだとも思う。売れるものを描くためには、こういうシャープな割り切りが欠かせないものだ……

ぼくはこれを読んだとき、なんかわかった気がした。あfろ氏はほんとうにクレバーだ、と。

「ゆるキャン△」は、ただの趣味系マンガではない。むろん、安直なちょい足しマンガでもない。そう手の内を晒している時点で、そういう手法で実は描いていないことの証左であろう。

「ゆるキャン△」のヒットについて考えるうえで、ぼくはむしろ「足し」じゃなくて「引き」のほうに着目すべきだと思う。たぶん、足すところまでは、だれだってできるのだ。難しいのは「引く」ことだ。
実写版を担当したプロデューサー・堀田将市さんは、ある記事の中でこう言っている。

「『ゆるキャン△』制作の場で、僕が禁止したことが2つあるんです。一つは『相手を褒める時に“かわいい”と言わせない』。そして、『安易な抱き付きをさせない』です」

この発言は作品への理解の深さを示すものとして称賛に値するとぼくは思うが、それはさておき、この発言が奇しくも示すように、「ゆるキャン△」は原作でも、一般にはマンガのフックとしてきわめて有効とおもわれる要素を、意図的に「引いて」いる。

女子高生ものマンガであるにもかかわらず、徹底して排除されているものをあげてみると……たとえば「異性」。あるいは「性的会話、シチュエーション」。高校生活でありがちな「友人との人間関係トラブル」。そもそも「キャンプ以外の、娯楽的なもの」。よくよく冷静に見てみれば、もはやおそろしいまでに、マンガとしても、生きる人間の日常としても、さまざまなピースが欠けている。

こうしてみると、「ゆるキャン△」が当たった理由も、おのずとみえてくる。他の有象無象の趣味系マンガと一線を画するのは、もちろん、この欠落である。ストイックにキャンプの娯楽性をアピールするために、作者あfろ氏が選択したのは、キャンプ(の楽しさを描くこと)以外のすべての雑音を、いっさい描かないという、尋常ならざるいばらの道だ。

それはおおむね成功しているように思う。あfろ氏は、余計な「媚び」をいっさい売っていない。その姿勢が好感されたのはまちがいない。キャラクターを萌え扱いしないし、キャラ同士にいちいち百合要素をほのめかしたりもしない。そういうウザい媚びはオタク向けだけで十分だ。そんなものはすべて「引き」、キャンプに徹底的に集中したのが勝因、といえるのではないか。

しかも、それだけではない。ぼくは、この文章のあたまのほうに、「コスパ・タイパ主義者」にとって、こうした人工的な娯楽世界こそが理想的、と書いた。

だが、それはほんとうなのか?ここにこそ、作者あfろ氏の皮肉と罠がある

「ゆる」キャン、と銘打たれているから、みな、このマンガで描かれているキャンプ行為を「ゆる」いと疑問も持たずに認定してしまっているが、よく考えてみよう。

ぶっちゃけ、原チャで100キロ以上巡航するような旅のどこが「ゆる」ですか?
冒頭、なでしこは本栖湖までチャリで行きますが、あれ、片道42キロですよ?
クリキャンや伊豆キャンで作られる「キャン飯」、あれ簡単じゃないですよ?相当料理慣れしたベテランが、下ごしらえとか仕込んでいったうえで、かろうじて現地で作れるレベルですよ?
そう、おそるべき罠、あfろ氏の皮肉、それは……

この「ゆるキャン△」というマンガは、そもそも、まったく「ゆる」くない。と、いうショッキングな事実だ。

タイトルにだまされた「コスパ・タイパ主義者」どもは、「ゆるキャン△」が描くキャンプが、よく見たら「ゆる」くなくなっていることに、どこかで気づくかもしれない。だが、気がついたときにはもう遅い。かれらもきっと、もうそのときにはキャンプに手を染め始めているであろう。そうなれば、キャンプのおもしろさがかれらを逃さないことだろう。

そう、おそらく、あfろ氏はいろいろ確信犯なのだと思う。「ゆる」を標榜したのは、たしかにキャンプの間口をひろげる意味があった。それはまちがいない。だが、ただ「ゆる」いだけのマンガでなく、「ゆる」さの先にいずれ待ち構えているであろう「キツさ」まで描いている。

そう考えると「ゆるキャン△」は、女子高生がきゃいきゃい騒ぎながらたのしくキャンプするその多幸感に酔うためのマンガにみえるが、その実、麻薬のようなキャンプの快楽に読者をひそかに誘う、そんな危険な罠に思えてくる。ぼくはもう、その罠にはまってしまった(後述)。みなさまもいかがだろうか?

追記:
ぼくは、すぐにマンガやアニメや小説に影響を受ける、たわいない男だ。大学で史学部をえらんだのはヤン・ウェンリーに影響されたからだし、タバコを吸い始めたのもある少女マンガのキャラがカッコいいと思ったからだし(銘柄までマネた)、シケモクを吸うのも、カリ城のルパンや次元大介に憧れたからだ。で、そんなぼくが「ゆるキャン△」の罠にあっさりハマった。で、こうなった。

主人公の一人・志摩リンが乗るバイク「ビーノ」(中古)を買ってしまいました。

あははははははは。

見ろよ、ホンモノのバカがいるぜ!

もちろん、これでソロキャンに行くつもりなのである。しかも2スト、というのがこだわりポイント。アニメ版をよく観察すると、リンの乗るビーノは見た目は4ストなのだが「音」は2ストだ、というのが定説だからだ(注 2スト・4ストは、エンジンの仕様の種類)。リンの乗るビーノのカラーリングが欲しかったが、それは存在しないらしい。ちなみにさすがは天下のYAMAHA、この「しまりんビーノ」が話題といち早く勘付き、一台限定で本当に作ってしまった(それは抽選で一名様に販売された。ぼくも申し込んだがハズレた)。

このへんの話をすると、女子にはゴミを見るような目で見られる。

とにかく、「ゆるキャン」の何かが、ぼくをここまで駆り立てたのだ。

後悔はしていない。

休みが取れたら、しまりんみたく150キロくらい走って、どこかへキャンプに行くんだ……
(完全な死亡フラグである)

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